どーも、そーじろです。
初めて
アカデミー賞予想(というか願い)が当たりました、"Coda コーダ あいのうた”。
現実の苦しみを音楽では埋めれなくなり映画を多く見始めたのが4年前ぐらいですが、年々
アカデミー賞が楽しくなってきて今年は遂に大好きな映画が作品賞、嬉しい。
1)涙を堪えて得られる感動
耳が聞こえない家族の中でひとり聞こえる娘(=Children of Deaf Adults)、それぞれの苦悩と成長を家族愛を通して描くとてもシンプル王道な感動プロット映画です。
良作で泣きます、3回観ましたが最初の2回は号泣でした。
でも感動の嵐が来ても泣くのをグッと堪えて作品理解の奥まで食らい付いていこうとしたら、そこには「なるほどー!」と痺れるような感動が待っていました。
日本では「感動大作、とにかく泣ける」とか、やたら
若い女の子が不治の病設定の「作品性より人を感動させることに重きを置いた」ような”感動ポルノ”と呼ばれる作品が多く、それが名作と評価される傾向が強いと感じます。
何故かというとみんな泣いてスッキリしたいから。泣くとストレス発散され、悲しいストーリーに共感した自分に酔えるので薄い脚本やわざとらしい演出でも簡単に満足感が得られるからだと。
だからポルノ、気軽に気持ち良くなりたい。でも泣いちゃうと満足して思考がそこで止まっちゃうので、より深く楽しみたい場合はグッと我慢して考え続けるのが大事なのだと学びました。
この作品は「苦悩→家族愛→成長」のベタプロットが土台にありながら、そのプロットを
現代社会の誰もが当てはまる「多様性とは」という問題提議に自動変換させ、その上で改めて人間同士の絆と愛の大切さを再提示するという、
理解が一周した後に初めて気づく本当の感動、感動というより「見つけた!」という感覚がやってくる作りになっています。すごく王道でキャッチ―に見えるし表層なぞって観るだけで十分泣けるのですが、この構成+脚本が本当に秀逸で奥に行けば行くほどすごい。
難しくて深い作品はいっぱいありますが、シンプルでこれほど深い作品はなかなか作れないと思います。
2)本当の意味での”コミュニケーション”
様々な苦悩や葛藤がありますが主人公の家族には声での会話はなくとも信頼と愛とユーモアがあります。ひとりもかけちゃいけない一心同体のチーム感。
「普通に耳が聞こるあなたの家族や周囲との人間関係はどうですか?」
と間接的に問いかけてくる作りになっている。
耳が聞こえないのは不利ですが、聞こえないからコミュニケーションができないというわけではない、そこが本質ではないと。
日本では
障がい者を「弱者」「可哀そう」と見る傾向が強いと感じます。
24時間テレビなどが典型例ですが「
障がい者は可哀そうなんだからいたわらなければいけない」「
障がい者は人より劣っているのだからひと一倍頑張らなければいけない」という深層心理がデフォルトになっている。
とても表層的で失礼なことですが、「可哀そう…」と共感することで自分を正当化するのが正となっており、
障がいありきで「その人自身、そのパーソナリティ」をちゃんと見ようとしていないと。
障がい者だって嫌なヤツもいれば卑怯なヤツもいる、頑張らなきゃと思ってもできない人もいる、ダラダラしてたって別に良い、
それは一般の人と変わらない(もちろん苦労は多いと思いますが)。
映画ではまずその
障がい者への色眼鏡を外させる。障がいがあろうと人種や出身がどうだろうとその人の中身をちゃんと見てリスペクトする、それが本当の意味での多様性でしょう?と教えられる。
そうなるとこの物語が全ての人に当てはまる苦悩や愛の話に自然と変換され、グッと没入させるという意図がある構成だと思います。
”本当の困難は耳が聞こえる聞こえないにあるのではない”
というメッセージを手話(ASL)のリズムテンポの良さ、表情表現の豊かさ、ユーモアで見事に説得力あるものにしています(手話中の無音時間が全く退屈にならない)。
障がい者の頑張りを見て「可哀そう」「頑張れ」「勇気をもらった」となる特番とは視点も理解の深さも全然違う。「一人の人間として見る・接する」というのが普段からフラットにできているからこそのこの差なんだろうなと思います。
3)音楽の効果
流れる音楽が大好きなものばかりというのも大きいポイントでした。
漁業組合を立ち上げ自分らの商売を守ろうと戦う際に爆音で流れるクラッシュの”I fought the law"は一気にテンションMAXになるし、
「子供たちを解放しろ、自由にやらせろ」と歌うボウイの"
Starman"を耳が聞こえない親の前で娘が合唱するという皮肉構造、
など意味と位置がちゃんと考えられています。「ここでこうゆー曲流れたらあがるやん?泣けるやん?」といったものではなく必然性がある(もちろん無音表現の目的と効果は説明不要なほど)。
なんといっても主人公がクライマックスで歌う
ジョニ・ミッチェルの”Both Sides Now"、これがもう何度見ても最高。
youtu.be
一番好きなのは兄貴、ある意味一番大変な立場なのに飛び上がって娘の合格を喜ぶ姿が最高です(4:03)
「地上から見たら太陽を遮って雨や雪を降らす嫌な雲も、飛行機の雲の上から見たら芸術的な造形をしていて美しく見える、雲も愛も人生も見方を変えたら思うことも変わってくるわね」
という歌でして、
「それでも全てはまるで幻のようで、よくわからないんだけどね」
と終わるという。
よく「視点や見方を変えると本質や正解が見えてくる」となりがちですが、結局それであっても(理解は深まるかもしれないけど)よくわからないもの、わかりえないものなのよ、というメッセージです。
結局人と人は共感はできても、経験の断絶は間違いなくあり、永遠に他者であることは変わらない。
「どんなに頑張っても自分は理解できないところがある」という自覚を持つことの大切さ、それが他者に対するリスペクトの形である、ということだと思います。
ボブ・ディランの「君の立場になれば君が正しいし、僕の立場になれば僕が正しい」にも通ずるところ。
作品の魅力で物語に没入させ、耳が聞こえない家族とその子供の立場から考えさせ、普通はそれを通して「こんな苦悩があったのか、理解が深まった、もっと自覚的になって応援しなきゃ」とさせる表現だと思いますが、
その上で簡単にわかったような気になることの危うさを提示し、
悲しみや同情のその先の理解まで連れていこうとしていて、成功していると思います。なんてこった。
そんな深い場所にある理解と感動を見事に表現した作品が見事作品賞をとったところに、「嫁が侮辱されたんだ、会が台無しになったって構わねぇ」と舞台に出て行って司会者をビンタするという直情的で浅はかな行為は許せません。
今後「コーダが作品賞を取った年」ではなく「ウィル・スミスがビンタした年」となってしまったので、あんまりです。
4)日本語字幕から見れてしまう日本映画界の作品理解への姿勢
映画内で日本語字幕が耳が聞こえない人を聾啞者、そうでない人を健聴者としています。これは
差別用語であり、現在ろう者と聴者と呼ぶのが正しいとされています。
と思ってたのですが直っていませんでした。全国300館上映に増えた今でさえ。
これは本当に深刻だなと。物語のメッセージに反しているだけでなく「作品の素晴らしさを理解しようとしていない」「話題になったしヒットさえすれば良い」という考えが透けて見えてしまっています。
この映画はろう者役は実際耳が聞こえない役者が演じており、アドバイザーにもろう協会の人が付いており、「実際どう感じるのか、どういったリアクションになるのか」など確認しながら撮っています。
そこが曖昧だと作品自体が表現したいメッセージそのものの根底からブレてしまうという認識がしっかりしているということです。
「作品に説得力を持たせるために戦争映画を撮るときは兵器や戦争の
スペシャリストに指示を仰ぐのは当たり前、それと同じでろう者を描く作品ならろう者に頼むのは当たり前」と監督は言っています。
そういった当たり前が日本にとってはまだひとつひとつが特別なことで、まだまだ認識や芸術作品に対するリスペクトが足りていないことの現れだろうな、(だから邦画はくだらない映画が多いんじゃ?)と非常に残念に思いました。
長く書きましたが本当に素晴らしい作品でした。
この映画で後に一番驚いたのは、とても感動的な家族との別れを経て主人公が通う
音楽大学が実家から車でたった1時間程度と知ったことでした。近いな!